悩める日々・・・

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今日の体重は 71.7kg でした。
体脂肪率は 22.6%
今日も朝から来年度の計画を立てるために時間をとっていたのですが・・・・
雑用が増え、来客があり・・・
やはり思うようには出来ませんでした。
でも、何とか今日のノルマまでは消化できました。
うーーん、もうすぐ週末です。
やばい。
ここから何とか間に合わせようと思います。
今日の良いお話は
勝者は決してあきらめない。
簡単にあきらめる者は決して勝たない。
「世の中はそんなに甘くない」
「そんなことで食べていけるわけがない」
「いつまで夢を追っているんだ」
「もっと現実的になりなさい」
こういう言葉をよく耳にします。
大人になるにつれて、
人は実用的で現実的なことばかり
考えてしまうようになっているようです。
こんな話をネットで知りました。
***
第二次世界大戦中の1945年
メジャーリーグにピート・グレイという選手がデビューしました。
彼は幼少の頃から、メジャーリーガーに 成るのが夢でした。
しかし、6歳の時ある出来事があり、うまく野球ができませんでした。
周りと比べると、とても下手でした。
野球をなんども辞めようと思ったとき
「諦めるな、やればできる。」と彼の父が励まします。
ピートは、お父さんのその言葉だけを胸に信じ、
血のにじむような努力を始めます。
草野球チームに入りますが、一度も練習には参加させてもらえません。
しかし彼は不平をいわず、毎日玉拾いをし1人で素振りの練習をしました。
そして、そのかたわら野球学校へも通い、
野球学校へ通いながら、いろんな球団の入団テストを受けます。
しかし、ことごとく入団テストに落ちました。
でも諦めません。
そんな中、雨の日も風の日も、黙々と練習を続ける彼の姿を見て、
心を打たれた学校の先生が全米のDリーグの監督に電話をかけます。
「うちにピートという、熱いやつがいる、見に来てくれないか、お願いだ」
その電話に触発され、Dリーグの監督が集まってきました。
そこでピートは全力でプレーを見せます。
しかし、どこの球団も彼を雇おうとはしませんでした。
それでもピートはめげず、ただ一途に努力します。
24才の時、ニューヨークのセミプロ球団、
「ブッシュウイックス」から声がかかりました。
ピートは「大好きな野球ができる。
僕はセミプロ球団でもかまわない」喜んで入団。
そこで、素晴らしい成績を残します。
この活躍を見ていたマイナーリーグ「スリーリバース」の監督が
ピートをスカウトします。
そして、ピートは打率3.81という素晴らしい成績を残したのです。
そして、とうとう幸運の扉が開かれます。
1945年大リーグの「セントルイスブラウンズ」が
ピートの採用を決定したのです。
念願の夢が叶った訳です。
そして、ピートの初打席
1球目、・・・空振り、
2球目、・・・空振り、
3球目、・・・空振三振。
ピートの初打席は、三振に終わりました。
でも、その三振を見て、スタンドの観客は総立ちに!
そして観衆はピートに大きな拍手を送りました。 
三球三振で、拍手?
観客達は、ピートの姿に、釘付けにされていたのです。
どうして三振して拍手が起こったか?
実はピートは6才の時に事故に遭い利き腕の右腕を根元から
切断されてしまい、片腕を失ってしまっていたのです。
ピートは、片腕で野球をしていたのです。
***
片腕でここまで這い上がり、思い切りのいい三球三振をやって見せたビート対し、
敵も味方も関係なく惜しみない拍手が贈られた光景が目に浮かんで涙が出ました。
ホント素晴らしいですね!
ソウルオリンピックで活躍されたアボット投手も
生まれつきの片手が不自由でしたが、
メジャーリーグでノーヒットノーランを達成されています。
片手だけで野球するなんて現実的ではないですし、
たとえ両腕があってもメジャーリーグは無理!
ましてや片腕でメジャーリーグなんて無理!ムリ!むり!
不可能!と思うのが現実的であり世間の常識です。
そんな人々の声に耳を傾けていたら、
ピート選手もアボット選手のプロ野球選手にはなれなかったでしょう。
しかし、彼らは諦めませんでした。
ピート選手のメジャーリーグ生活は1年で終わってしまい、
その後は故郷で少年たちに野球を教える指導者となられ、
子どもたちに対し、こんな言葉を送っていたそうです。
『 A winner never quits.』
(勝者は決してあきらめない)