今日も朝から・・

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今日の体重は 68.9kg でした。
体脂肪率は 22.2%
今日も朝から授業の準備に、テスト準備、冬期講習の準備、来年度の準備
と、頑張っていると あっという間に授業開始でした。
来年度の準備では、新たなコンテンツの導入も考えていまして
色々と調べないといけないことがありました。
パンフレットに書かれている内容は理解できるのですが
その実態は?ってことがあります。
そこで全国の他塾ですでに導入している先生などにヒアリング。
県外だと利害関係がないからぶっちゃけで教えてくれるので助かります。
県外にコネクションがあるって良いもんです。
相談させていただいた先生方ありがとうございました。
今日の良いお話は
心の鏡が曇ってないひと!
エッセイストの大石邦子さん(73才)は、22歳の時、
出光興産の会津若松営業所にバスで出勤途中、
事故に遭い、下半身と左半身がまひ状態になってしまいました。
その後、長年にわたる闘病とリハビリの生活を送りながら、
煩悶と苦悩を乗り越え、残された右手一本で執筆されたエッセイは
多くの人々に勇気と感動を与え続けています。
大石さんがある雑誌で、出光興産創業者・出光佐三氏
のことを語っていらっしゃいます。
***
私は出光さんに出会っていなければ、
いままで生きてはいられなかったと思います。
本当に支えていただきました。
私は出光興産に勤めていましたが、
こういう体になって再起の見込みはないと
医師に宣告されましたので、退職しました。
それから二年くらい経って、まず本社の人事部長さんが訪ねて見えました。
何だろうと思いました。
「店主(出光氏)に『東北の子供が事故に遭って
動けなくなって退職したと聞いたが、本当か』と聞かれた」と。
そして「君は自分の子供が病気になって動けなくなったら、
その子は要らないと言うかね」と言われ、
様子を見てくるように言われたのだそうです。
出光興産は「大家族主義」といって、
社員は家族と一緒、出光さんにとっては
全員が子供だというお考えで定年制もない会社でした。
といっても、私は既に辞めた人間です。
それなのに昭和44年1月10日大雪の竹田病院に
出光さんご本人(84才)が来てくださったのです。
「くーちゃん、来たよ。もう大丈夫だよ」と言って私の手を握り
「私もこれまで〝出光は自殺するのではないか〟と噂されるほど苦労もした。
その苦しみがいつか楽しみに変わった。
でも精神的なものは誤魔化しもきくが、くーちゃんは体だからね。
でもね、くーちゃんも、必ずそうなるからね。頑張りなさい」と。
そして、「君のご両親は私の息子と同じくらいの年齢だから、君は孫だ。
きょうから〝おじいちゃん〟と呼びなさい」とおっしゃったんです。
もちろん、一度もお呼びしたことはないですが、
亡くなられる直前まで、
いつも「おじいちゃんだよ」とお電話をくださいました。
(『致知』より抜粋)
***
驚くことに、
出光さんが大石さんの動かない左腕に手を添えたとき、
それまで、全く動かなかった大石さんの指が、ピクリ!
その後大石さんの左手は、少しずつ動くようになったのだそうです。
出光店主ならびに出光興産の社員の温かさに感激した大石さんは
病床で『この生命ある限り』という本を書き、
その本はベストセラーになりました。
その後、このことが地元の新聞に取り上げられ、
道徳の時間に読み聞かされた小学生たちから、
感想文が出光興産の社長室にどっさりと届きます。
その縁で、出光店主は会津若松小学校の生徒の前で、
講演をされました。
***
「きみたちの手紙の中に、出光会長のように偉くなりたい、
と書いてあったが、必ず僕よりも偉くなれると信じている。
学校や先生たちから道徳を教えられているのだから、
これからは真心の鏡が曇らないように自分で磨いてほしい。
政治家や大事業家が偉いのではない。
真心の鏡が曇っていない人が偉いんだ」
***
出光氏は、いつも
「会社がいよいよ駄目になったら、みんなと一緒に乞食をするまでだ。」
おっしゃっていたそうですが、
ホントまっすぐで素晴らしいです!