今日の体重は 67.8kg でした。
まだ、維持している
今日は清秀中学校の説明会に行ってきました。
ま、いつも通りの説明会で目新しいことはありませんでした。
試験の制度が少し変更したくらいですかね?
あと、合格率が50%くらいで普通の私立に比べて厳しかったです。
でも経営のために妥協してどんな生徒でも合格させるのではない
っという考え方には共感を受けました。
その後、帰って説明会や配布資料などの準備をしていると
卓上混乱状態になりました。
今夜は諦めて帰ります。
今日は中1の授業でした。
単語テストもみんな出来始めました。
次回は例文のテストをします。
さて、文章が覚えれるか?
楽しみにしています
今日の良いお話は
継続のコツは
何度も何度も始めること。
ピート・グレイ
1945年にアメリカ・メジャーリーグで
活躍した選手
感動の実話です。
ピート・グレイさんは、
1917年アメリカ、ペンシルベニア州生まれ
機関車と野球が好きな普通の少年でした。
ある日、父親に連れられて、
大リーグの試合を見に行きます。
ニューヨークヤンキースが大好きだった彼は、
さよならホームランでヤンキースが勝った試合を見て、
大リーガーになることを夢見て、努力を始めます。
大リーグの世界は、ホント巨大な組織です。
下から
「Dリーグ」
「Cリーグ」
「Bリーグ」
「ルーキーリーグ」
「Aリーグ」
「AAリーグ」
「AAAリーグ」
そして、やっとメジャーリーグ
ホントに長い長い道のりです。
6才の時ある事故により、野球を断念しようと思いました。
その時お父さんが彼にかけた言葉、
それが「諦めるな、やればできる」でした。
ピートはお父さんのその言葉だけを、
胸に信じ、血のにじむような努力を始めます。
草野球チームに入りますが、
一度も練習には参加させてもらえませんでした。
しかし、彼は不平をいわず、毎日玉拾いをし、
一人で素振りの練習をしました。
野球学校へ通いながら、
いろんな球団の入団テストを受けましたが
すべて、不合格。
しかし、ピートはお父さんの言葉通り、
諦めませんでした。
雨の日も風の日も、黙々と練習を続ける彼の姿を見て、
心を打たれた学校の先生が全米のDリーグの監督に電話をかけました。
「うちにピートという、熱いやつがいる、
見に来てくれないか、お願いします。」
Dリーグの監督が集まってピートのプレーを
見ましたが、どこの球団も彼を雇おうとはしませんでした。
ピートはどうしたのか?
ピートはめげず、お父さんの言葉通り、
諦めませんでした。
24才の時セミプロ球団から声がかかり、
喜んで入団しました。
そこでの活躍がマイナーリーグの監督の目に留まり、
スリーリバースというチームにスカウトされます。
ここでピートは打率3.81の素晴らしい成績を残します。
全くおごること無く努力を続けるピートに、
次々と幸運の扉が開かれはじめます。
1943年、AAAに昇格し、MVPを獲得。
ついに1945年大リーグの
「セントルイスブラウンズ」が
ピートの採用を決定しました。
ピートの初打席です。
1球目、空振り、
2球目、空振り、
3球目、空振り
ピートの初打席は、三振に終わりました。
でもその三振を見て、スタンドの観客達は、
総立ちになり、終わらない拍手を送りました。
観客は、ピートの姿に、
釘付けにされていました。
実は彼は、6才の時の事故で、
右腕を根元から切断されていた
片腕の大リーガーだったからです。
大好きな機関車を見に行って、
その下敷きになってしまったのです。
6才にして、片腕を無くしたピートに、
父親がかけた言葉
それが「決して諦めるな」だっだのです。
ピートのお父さんはこう回想しています。
「あの時、もしも、彼から、
野球という夢まで奪ってしまえば、
もう、彼には何も残らない。
「諦めるな」と言うしか、他になかったと・・・。
お父さんの言葉だけを、信じて努力した彼を
観衆は知っていました。
その偉大な三振に観客は惜しみない拍手を送り続けた訳です。
ピートは1年で引退し、
故郷に帰り、少年野球の指導をし、
87才で生涯を閉じます。
彼が亡くなる前、残した言葉があります。
「私の子供の頃の夢は、
ヤンキースタジアムで野球をすることでした。
そして、それを叶えられたことが、
自分の人生にとって、
もっとも素晴らしい出来事だったと思います。
自分のような、体に生涯をもつ者にとって、
練習こそが全てでした。
でもたとえ練習しても自分にやってくるチャンスは、
わずかなものでした。
ある時こう言われたことがあります。
「両方の腕があっても、野球をするのが難しいのに、
片腕で野球なんかできるわけがないだろう」
それでも諦めず、自分は常に夢に向かって練習したのです。
最後に好きな言葉を送ります。
『勝者は決して諦めない。