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春期講習の教材選んできました。

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今日の体重は 70.8kg でした。
昨夜は絶食。0.2kgの効果あり
今日は春期講習に使用するテキストを選んできました。
いろいろある中から生徒の顔を思い浮かべ、どのテキストにすべきか悩み、悩み、悩み・・・・
さらに授業の展開を描いて、悩み、悩み、悩み・・・・
と、悩み続けたあげく、1時間30分後にテキスト決定!!
春のスタートダッシュ頑張る準備完了です。
今日の良いお話は
社会の秩序を守る防波堤は、
人間が約束を守ることである。
(鮎川義介:日産コンツェルン創始者)
江戸時代の川柳に「売り家と唐様で書く三代目」というのがあります。
家業は、三代で潰れるという意味です。
創業者は何も無いところから、
情熱と努力で事業を成功させ、財産を築く。
 ↓
二代目は父親の苦労する姿を見ながら育ち、
財産を維持する。
 ↓
三代目は財産を当たり前のものと思い、
使い果たしてしまうが、教育教育レベルは高いので、
洒落た唐様の文字で売り家と書く。
(唐様=明(みん)の書風をまねた漢字の書体)
これは財産家の道楽ものを皮肉った川柳ですが、
恵まれた環境というのは、どうしても考えが甘くなり
ハングリー精神がなく、精神力が脆くなってしまう
というのは事実と思います。
しかし、明治時代に、恵まれた環境の中でも
誰よりも努力し勉強をして、
とんでもないことをされた大人物がいらっしゃいました。
その人は、鮎川義介(あゆかわよしすけ)という方で、
1880年(明治13年)山口県の士族の長男として生まれ、
母親は井上馨(三井財閥の顧問)の姪、親戚一同名門揃いという家柄
学歴も優秀で東京帝国大学(現東京大学)の機械工学科に進学し、
4番という優秀な成績で卒業します。
就職先に現在の東芝の前身の芝浦製作所を選ぶのですが、
何と一介の見習い職工として雇われます。
当時の東京帝国大学の工学科卒は、たいへん権威があり、
ましてや親戚のコネを使えば財閥系など、
どんな企業にも入れた訳ですが、鮎川さんは帝国大学工学科卒を隠して
職工としての入社されます。
それには理由がありまして、
「いずれは自分で経営をしたい。
そのためには現場を知りたいので、
一から出発したほうが良い」と考えたという訳です。
鮎川さんは職工をやりながら休日になると弁当を持って、
東京周辺の工場を見学して歩き、当時の技術水準、
企業経営、工場管理のことを徹底的に研究して廻りました。
約2年間の調査の結果
「日本の機械技術は欧米からの輸入で、殆ど独自のものはない。
だから日本で勉強しても、最新の機械技術に接することはできない」
という結論に達します。
またここで凄いのが鮎川さん思うだけでなく、
新しい技術を学ぶためにアメリカに渡る決意をします。
しかし、ここでもコネは使いません。
親戚には政治家や官僚、三井アメリカ事業所関係者もいて、
容易に留学ができたはずなのですが、
鋳物工場の見習工になるため、バッフォロー市郊外の
鋳物会社に週5ドルの見習工として雇われます。
そこで現地の大男に混じって鋳物の湯運びをするのですが、
大変な重労働だったそうです。
火傷をすることなど、しょっちゅうで、怪我が絶えなかったそうです。
しかし、鮎川さんは「日本人として根を上げたらみっともない」
と思い頑張りぬき、2年後、当時の最新鋳物技術であった
可鍛鋳鉄を習得して帰国されます。
帰国後、1910年(明治43年)
北九州の戸畑に日本初の可鍛鋳鉄会社、戸畑鋳物を設立。
後の日立金属の前身となる会社です。
戸畑鋳物を皮切りに次々と会社を設立し
日産自動車や日立製作所など日産コンツェルンと
呼ばれる大財閥を一代で築き上げられました。
ホント素晴らしいですね!
そして凄いです。
やはり、成功は、おかれた境遇によって決まるのではなく、
その人自身の心構えによっている訳で、
無から有を生み出す実力と習慣が
唯一の武器ということですね!